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5話 私の署名、知らない契約

Author: 6jay
last update publish date: 2026-09-20 12:13:15

紗月はベランダのドアを閉め、怜司にかけ直した。

莉奈には頭痛がひどいから今日は休むと伝えた。彼女は心配そうな顔で、薬を忘れずに飲んでくださいねと言って帰っていった。

最後まで、完璧なアシスタントだった。

「今なら話せます」

『お送りした暗号化メールは、ご覧になりましたか』

「まだです」

『開く前に確認させてください。先生は、ページオンという会社と、著作権の包括的な譲渡契約を結ばれましたか』

「いいえ」

迷わず答えた。

『既存の連載作品十二作と、執筆中の新作を含む契約です。電子書籍、コミカライズ、映像化、海外翻訳の権利も含まれています』

「そんな契約、していません」

電話の向こうで、紙をめくる音がした。

『契約書には署名があります。汐文コンテンツの代表、藤崎直人さんが代理で確認したことになっています』

「夫です」

『存じています。ですから、会社の担当者に差し戻さず、直接ご本人に確認しました』

怜司は事情を聞かなかった。驚いた声で慰めることもなく、必要な事実だけを短く伝えた。

「契約書を送ってください」

『まず写しをお送りします。原本と提出記録はこちらで保全します』

「承認は?」

『ご本人の確認が取れるまで、保留にしています』

「そのままにしてください。拒否したという連絡も、まだしないで」

少し、沈黙があった。

『状況を確かめる時間が必要ですか』

「はい」

『わかりました。まず、ご自身のアカウントのパスワードを変更してください。会社の共用アカウントと同じものなら、別々に』

「一ノ瀬さん」

『はい』

「その契約書、いつ届いたんですか」

『昨日の午後四時十二分です』

昨日、直人は外で仕事があると言って、午後はずっと会社にいた。夜には折り畳んだ紙を袋に入れ、1704号室へ運んだ。

「ページオンの代表は、誰ですか」

『高瀬莉奈さんです』

紗月は目を閉じた。

左手で右の手の甲を包む。指先が冷え、なかなか感覚が戻らなかった。

「写しを送ってください」

『すぐに。できれば、お一人では確認しないでください。信頼できる弁護士や公認会計士が必要になるかもしれません』

「紹介していただけますか」

『はい。先生が望まれるなら』

通話を終えると、パスワードで保護されたメールが届いた。

契約書は十四ページ。最初のページに、汐文コンテンツとページオンの名が並んでいた。契約期間は十年。国内外での翻案や二次利用、それらの権利の譲渡まで、ページオンが独占的に行える条項が続く。

最後のページには、藤崎紗月の名前と署名があった。

確かに、自分の署名だった。

数か月前、出版契約書に入れるため、直人に送った画像。線の先でインクがにじんでいるところまで、同じだ。

譲受人代表、高瀬莉奈。

立会人・代理確認者、藤崎直人。

紗月の署名の下に、二人の名前が行儀よく並んでいた。

紗月は契約書のファイルを、個人用の保存媒体二つに複製した。メールも別のアドレスへ転送せず、元の形式のまま残した。怜司に言われたとおり、個人アカウントのパスワードと、復旧用の電話番号を変更した。

共有クラウドには、直人も莉奈も入れる。最近のアクセス履歴を開くと、明け方や週末にも、大きなファイルをダウンロードした跡があった。既存作品の原稿だけではない。出版契約書、印税の明細、新作のメモまで含まれていた。

画面を保存し、ウィンドウを閉じた。今すぐ二人のアクセスを止めたい。けれど、急にパスワードを変えれば気づかれる。何をどれだけ持ち出されたのか、確かめる時間も必要だった。

信じて任せたことと、放っておいたこと。その境目はうまく引けなかった。

それでも、ひとつだけは決めた。

代わりにやっておくと言われたことを、これからは自分で確かめる。

仕事部屋のドアが開いた。

紗月は反射的に、パソコンを閉じた。

「寝てなかったの?」

直人が顔を出した。午前中は外で打ち合わせだと言っていた人が、昼になる前に帰ってきている。

「どうして、もう帰ってきたの?」

「打ち合わせがなくなった。莉奈さん、帰ったんだ?」

「頭が痛いから、今日は休みにした」

「薬は飲んだ?」

「うん」

直人は部屋へ入り、紗月の肩を揉んだ。

「最近、無理しすぎじゃないか。新作のことは俺に任せて、少し休めよ」

優しい声だった。長いあいだ信じてきた声。

「あなたに、何を任せるの?」

手が、ほんの一瞬止まった。

紗月は椅子を回し、彼を見上げた。相手の顔に驚きが浮かぶ前に付け加える。

「契約とか。最近、多いから」

直人の表情が、また緩んだ。

「そういうのは俺がやるよ。紗月は、書くことだけ考えていればいい」

彼は軽く紗月の頭を撫で、キッチンへ出ていった。

紗月は閉じたパソコンに手を置いた。

直人が欲しいのも、結局は、自分の書くものだけだった。

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